【テキスト】第七三回 高須クリニックCM論 -YES!は誰への応答か-

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※『第七三回 高須クリニックCM論 -YES!は誰への応答か-』の元になった論文です。

高須クリニックCM 論 -YES!は誰への応答か-

三木章太郎

0. はじめに
5月17日、衆議院厚生労働委員会において悪徳な美容外科広告の問題に追求した大西
健介議員は、その中で「YES!高須クリニック」でおなじみの高須クリニックのCM に言
及した。大西議員はその後も、城本クリニック・共立美容外科のCM に触れながら、病院
名と連絡先のみを喧伝するこのようなCM を総じて「陳腐」と評した。この発言は波紋を
呼び、高須クリニック側は大西議員と民進党を名誉毀損で訴えるに至る。大西議員の問題
の発言が高須クリニックを貶めることを意図したものではなく、むしろ過度に厳しい規制
によって内実を失った美容整形広告の現状を憂いたものであったことはその後の発言を追
えば理解できることであるが、いずれにせよ一連の騒動は美容整形業界のCM 表現が独特
の傾向を示している事実を改めて浮き彫りにした。
確かに、当該業界CM の紋切り型として第一にあるのは、耳に残る音楽と企業名、抽象
的な美男美女のイメージである。一切具体的な情報を提示しないこれらの広告は、大西議
員が指摘するように厳格な広告規制の下で広告を出稿するにあたって各社が苦心した結果
であるとも言える。しかし、果たしてその表現を「陳腐」だとして片付けることはできる
のか。いくら広告が抽象空間における企業名の連呼に終始していたとしても、それが映像
として存在する限り無内容なものとは言えない。映像が陳腐であると言うためには必要な
手続きがある。本稿は一連の騒動に深入りするつもりはないが、ガラパゴス的に発展して
きた日本の美容整形広告に対して一つの意味を導入し、これら疑惑の広告を無意味の淵か
ら救出することを目的とするものである。中でも大きな示唆を与えてくれるCM として、
本稿では高須クリニックのCM 表現を取り上げる。

1. 作品の類型
過去に放映されてきた高須クリニックのCM は無数にあるが、筆者が確認できた2000
年以降の作品に限って言えば、主に二つの類型に分類することができる。
第一の類型は完全なフィクションとして描かれたシリーズで、歌手の郷ひろみを全面に
押し出し、郷が様々なシチュエーションで人生を謳歌している様子が虚構的に描かれるも
のだ。このタイプは2007 年ごろまで断続的に放映が続けられた。第二の類型は、郷に代
わって高須克弥院長自身がCM に出演するシリーズで、2017 年現在も放映が続いている。
第二の類型において、高須は第一の類型で郷が置かれたのとほぼ同じシチュエーションに
置かれ、やはり郷と同様に人生を満喫している様子が描かれる。しかし、同様のシチュエ
ーション下の人間を描いているにもかかわらず、二つの類型が与える印象は大きく異なっ
ている。郷が虚構的に人生を謳歌する男を演じていた一方、高須は高須自身として実際に
人生を謳歌しているように見えるのだ。特にこの印象はCM 内のビジネスシーンによって
強調される。郷が歌手であることを知っている私たちは、郷が背広をまとって会議に出る
シーンを虚構以外のものとして受け止めることができない。一方で、高須がそのような状
況にあることに私たちは違和感を覚える必要がない。つまり、第一の類型が抽象的な人生
の幸福を描いたイメージビデオであるならば、第二の類型はそうした一見浮世離れした幸
福がまさしく現実にありうることを主張したものと考えることができる。いわば、「幸福な
男のイデア」が郷であり、高須は「一人の幸福な男」なのである。
ところで、同時期に放映された二類型のCM を見ると、郷と高須が同じCM 内で共演す
ることが周到に避けられていることがわかる。高須自身CM への露出を厭わないにもかか
わらず、高須と郷が一向に出会わないのは些か不自然にも見える。だが、これは「イデア
としての郷」と「生身の人間としての高須」が同じ世界に存在しえない事実を徹底したも
のと考えられないだろうか。このことが最も明快に現れた一本のCM がある。
郷が歌手として踊る一方、高須がその舞台裏で郷を見守る作品だ(2005 年12 月放映)。
これは筆者が見た限り高須と郷が同一CM 内に登場する唯一の作品であるが、それでも両
者は決して出会うことがない。それどころか強調されるのは両者の間の断絶である。CM
終盤、郷が歌う様子をモニター越しで別室から見守る高須が描かれるのだが、このシーン
はフィクションに生きる郷と現実に生きる高須との次元の隔たりを強烈に印象づける。
このCM の後も第一と第二の類型はどちらかに偏ることなく交互に放映が続くのだが、
ある時点で決定的な作品が登場する。それは二人の郷が同一画面に現れる奇妙な作品であ
る(2006 年8 月放映)。CM 中、郷はもう一人の郷によって写真を撮られる。モデルの郷
はカメラマンの郷に対して様々なポーズをとる。分裂した郷は何を意味するのだろうか。
まず指摘できるのは、虚構世界内において郷が分裂したことにより、郷と高須の間に成り
立っていた<イデア/生身>の関係がフィクション内にも相似的に発生するということだ。つ
まり、モデルの郷はフィクション空間の中でより純粋なイデアとなり、カメラマンの郷は
相対的に生身に近づいている。これまでの考察をまとめれば、<生身としての高須/イデア
3としての郷>という図式が、<生身としての高須/生身に近いイデアとしての郷/イデアとし
ての郷>の三つの次元に分岐していることがわかる。しかし、近年のCM によってこの構
造はさらに分岐することになる。
2010 年代になると、CM はこれまでになかった傾向を見せ始める。「院長の1 日」と題
されたシリーズだ。これは院長の他愛もない日常を1 カットで切り取ったドキュメンタリ
ーシリーズであるが、そこで描かれるのは限りなく生身の高須自身である。ここで生じる
のは、先の図式の分岐とずれ込みである。郷のCM がイデア的であったために相対的に生
身の印象が強かった第二の類型は、それでもやはりイデア的であったことがここで強調さ
れることになる。結局、先の図式は<生身としての高須/イデアに近い生身としての高須/
生身に近いイデアとしての郷/イデアとしての郷>に枝分かれする。
ただし、この図式が便宜上のものであることには十分留意しなければならない。重要な
のは、この分岐が原理的に無限に起こり続けるということだ。高須がありのままの生活を
いくら曝け出したとしてもそこから高須の演技性を完全に排除することはできないし、逆
にイデアとしての郷から身体性を剥奪しきることはできない。郷のイデア性を幸福に生き
たい男にとっての理想と言い換えるならば、これまでのCM は理想の自分と現実の自分が
どこまでも地続きで、両者が互いに架橋可能であることを示していると言える。

2. 反復とパロディ
中東ドバイを舞台にした一連のCMにおいて、興味深い特徴を指摘しなければならない。
2007 年2 月に放映が始まった初回のCM は、アラブ人と思しき女性がカメラに向かって
「Good morning Dr.TAKASU」と呼びかけるショットから始まり、砂漠の中を白いSUV
でドライブする高須のシーンで幕を閉じている。奇妙なのは、これを追うように放映が始
まった複数のCM において、登場人物が別人にすり替わっていることである。2007 年7
月に放映が始まったCM では砂漠をドライブする郷が描かれるのだが、驚くべきことに2
月のCM で高須がドライブするショットとほぼ完全に同一のショットが複数現れる。
前章でも、第一の類型と第二の類型において高須と郷が置かれるシチュエーションの間
に有意な近似が認められることは確認したが、ここで見られるのは近似というよりもほと
んど模倣である。反復する同一ショットは一体何を意味するのか。前章で確認したのは、
理想としての郷と現実としての高須という二類型であったが、二つの類型は元をたどれば
郷から始まっていたことをここで思い返そう。郷による理想の幸福像が描かれる第一の類
型に遅れて、高須が出演する第二の類型は現れた。つまり、これまでの高須クリニックの
CM は、決して現実が理想を追い抜くことのない、いわばあらかじめ結果が定められたレ
ースだったと言える。しかし、問題のCM で状況は一変する。郷は初めて高須に遅れをと
る。<高須=現実>が乗った白いSUV は、灼熱の砂漠で<郷=理想>をいつのまにか追い抜
いていたのだ。こうして郷は「理想郷」としての役割をついに終える。これは決定的な出
来事だ。現実が理想を超え、むしろ理想によって現実が模倣される事態。こうした現実の
優勢化傾向は後続するCM からも指摘できる。
2008 年6 月に始まったCM において、当初のCM 冒頭に登場していたアラブ系女性が
タレントの野村沙知代に交代しているのである。さらに、2009 年4 月には野村は漫画家
の西原理恵子に交代する。これは明らかに当初のCM のパロディであるが、ここでも理想
が現実と交代していることがわかる。
重要なのは、野村と高須、西原と高須の現実における親密な関係性である。高須は野村
と家族ぐるみの交際をしているし、西原に至っては高須と事実婚の状態にある。生身の高
須にとって現実の重要な構成要素である二人を逆輸入的に理想の世界に送り込むことで、
高須は現実にある幸福が理想の幸福をすでに凌駕していることを宣言しているかのようだ。
2010 年代に始まった「院長の1 日」シリーズと合わせて考えると、2000 年以降の高須
クリニックのCM は「理想の幸福」を「現実の幸福」によって塗り替える歴史だったと言
えるだろう。

3. 理想郷からの追放
砂漠で高須に追い抜かされた郷であったが、郷はこのCM からまもなくして高須クリニ
ックのCM から姿を消すことになる。郷が出演する最後期のCM から浮かび上がるのは、
とある感動的な光景である。
2007 年12 月に放映されたCM において、郷はいつものように舞台上で踊っている。い
つもと異なるのは、続くシーンで高須克弥の息子である高須幹弥の講演会が映されること
だ。その後、取材を受ける郷が描写されたのち郷と幹弥は出会い、握手する。先に分析し
た砂漠の追走を思い出せば、このCM は理想としての役割を失いかけ、現実へとその居場
所を変えつつある遊動する郷を示した過渡期的な作品だと言えるだろう。加えて、注目す
べきは幹弥の存在だ。高須の息子である幹弥は息子であるという点で実は特異な役割を果
たしている。当然、幹弥は父高須の生身の現実を構成する重要な要素でもあるが、息子と
いう属性は父の一部でもあり父ではない存在を意味する。いわば、幹弥は父にとって現実
と理想の間に遊動する中間者だ。その意味で、理想から脱しつつある郷を迎え入れる使者
は幹弥でなければならなかった。
さらに、CM 中で郷に歌われている楽曲が『もういいの?』であることは暗示的だ。虚
構的なアイコンである必要がもはやなくなったことに対する郷の安堵が、ここに滲み出て
いるように見える。
2008 年1 月、ついに郷が最後に出演したCM が放映される。空港を走る郷に過去の郷
の映像がフラッシュバック的に挿入される。CM の終わり、郷を待っていたのが一人の女
性であったことが明かされ、郷最後の「YES!高須クリニック」とともにCM は終わる。
女性の顔は明かされない。
このCM が感動的なのは、生身の身体を回復した郷がそれによって一人の愛する女性に
出会えたことだ。この女性の顔が明かされないのは、彼女が生身の郷にしかわからない、
彼一人にとって愛すべき存在だからだろう。こうして、郷は理想の幸福を演じる役割をつ
いに終え、現実の幸福を手にすることができたのだった。

4. 坊主・仮面・スッピン
理想郷からの郷の追放によって決着がついたかに見える<現実=高須>と<理想=郷>の
闘争だが、真の闘争はここから始まることになる。
ここに、闘争が新たな局面を迎えたことを示す一連の作品群がある。一つは、2011 年
12 月に放映が始まったテレビ局スタジオが舞台のCM だ。スタジオには巨大な高須の肖
像写真が吊り下げられ、高須と女性インタビュアーの対談が収録される準備が進められて
いる。そこに満を持して高須が現れるのだが、驚くべきことに高須の頭は坊主になってお
り、高須を待っていた女性は困惑の表情を浮かべる。このCM と同時期にWEB 上で公開
された続編では対談の本編が描かれている。対談の最中、女性は巨大な高須の肖像写真と
目の前に座る高須とのギャップにうろたえ続ける。対談の最後、高須が唱える「YES!高
須クリニック」に続いて、女性は唐突に「YES!丸坊主」と言い放ち、高須の戸惑う表情と
共にCM は終わる。この不可解なCM もこれまでの考察から理解することができる。
スタジオに吊るされた高須の写真は、理想化された高須を意味する。これは郷が消えた
ことにより、高須がかつての郷の役割を担わされているという皮肉な宿命である。すなわ
ち、郷と高須の永きにわたる闘争は、高須対高須の自己闘争へと発展的に変奏されること
になったのだ。一方、スタジオに座る高須は生身の高須だ。CM 中、二つの高須の間で女
性が困惑しているのに対し、生身の高須は飄々としている。その態度はまさに、現実が理
想を超克するというあの傾向を示している。高須は突然の坊主を曝け出すことによって、
もはや現実が理想の後塵を拝してそれをなぞるものでは決してないことを寡黙に表明して
いるのではないか。一方、女性の「YES!丸坊主」というセリフは、現実の高須と理想の高
須の乖離に苦しむあまり、生身の高須を新たな理想の高須として再解釈した女性の狡猾な
戦略である。高須が困惑したのは、どれだけ自分を曝け出したとしても現実が理想化され
た新しいイメージに回収されるのを止められないという、この悲劇的な事実に対してでは
なかったか。
しかし、この悲劇を喜劇的に解釈し返す路線もまだ残されている。2013 年2 月に放映
されたCM では、コンサートの舞台に上がる高須が描かれる。これはかつて郷が登場した
CM のパロディであり、<理想=郷>の完全な死を宣告するものであるが、今それ以上に重
要なのは高須が高須の仮面を被っていることだ。
高須はCM 終盤で仮面を脱ぎ、素顔を見せることに成功する。これは、生身の高須が虚
構的イメージに回収される度に、そのイメージが虚構に過ぎないことを暴露するという正
当防衛的戦略である。この捨て身の喜劇的戦略は、ある意味で現実に勝利をもたらしてい
ると言えるだろう。
また、2012 年4 月に始まる高須が書道家に扮したシリーズには、さらに泥臭いやり方
で現実を必死に肯定しようとする高須の姿がある。書道家高須は様々な文言を半紙に書き
つけるのだが、そのほとんどは「スッピン」を盲目的に肯定する文章なのだ(例えば「ス
ッピンピンピピンピンピイエス」、「イエス!スッピン萌え」等)。
これら狂信的なスッピン崇拝は、生身の身体の権威付与によって理想を越えようとする
運動以外の何物でもない。しかし、このような地道な戦略が現実に勝利をもたらしたとし
ても、それは束の間のものでしかないことに留意しよう。現実と理想は無限に闘争を続け、
いつまでも停止することはない。そして、この事実に高須が自覚的であったことは次の文
言から推測できる。高須はこのように記している。「僕の素顔ははるか彼方」。この格言め
いた文言は、終わりなき闘争の末に自らの素顔を見失う危険性があることを、自戒を込め
て切実に表明している。
この章の最後に、現実の高須が理想の世界へ果敢に攻め込んでいったCM として、2017
年2 月に公開された最新のCM を検討したい。最新CM において、高須はYouTube を通
して一世を風靡したピコ太郎と共演している。CM 冒頭、真っ白な抽象空間でピコ太郎は
高須の名前を次のように尋ねる。「Are you TaKaSA..??」「Are you TaKaShI..??」これに
対し、高須は全身の身振りを交えて「NO!」を連呼する。ピコ太郎が「Are you TaKaSU..??」
と尋ねると、高須は満面の笑みで「YES!」と叫ぶ。すると舞台がきらびやかなダンスホー
ルに変わり、高須とピコ太郎は踊りながら「高須クリニック」と連呼する。
ダンスホールで踊り狂う高須は、ステージ上で踊ったかつての郷のイメージを滑稽なほ
どにずらしながらも反復している。豪華絢爛なダンスホールは理想のイメージの総本山だ。
無視できないのは、CM 冒頭で高須が「NO!」を連呼していることである。これまで念仏
的にひたすら「YES!」を唱え続けていた高須が発する「NO!」は、どのような響きを持つ
のか。しかし、この「NO!」も結局「YES!」の言い換えに過ぎない。高須が主張するのは、
自分がタカサではなく、またタカシでもない、ということだ。自分以外のあらゆるものに
「NO!」を突きつけることで、帰納的に自身を確定しようとする新たな戦略がここに見て
取れる。こうして自身が他でもない生身の高須であることを暴露して初めて、高須はダン
スホールへ進撃する。生身の高須による周到な準備の末の理想への侵略。これが、闘う高
須、最新の路線である。

5. YES!は誰への応答か
理想と現実の終わりなき闘争に対してどのように対処すべきか。この問題は高須クリニ
ックのCM 史を辿った先に待ち構えている最終問題のように思える。問いに答えるための
補助線として、これまで触れることのなかったとある主題について最後に検討しよう。
忘れてはならないCM の主題に乗り物がある。ヘリコプター、セスナ機、ヨット、クル
ーザー、乗用車、トラック、バイク。わずか30 秒ないし15 秒間のCM 中で、高須はあら
ゆる移動手段を用いて移動し続ける。停止することのない高須の運動は、ほとんど強迫症
的にも見える。一体高須はどこからどこへ向かっているのだろうか。
重要な示唆を与えてくれるのは、高須クリニックが本業とする「美容整形行為」自体が
もつ特性である。そもそも、美容整形という施術は、現在の自らの姿を変革したいという
患者の欲求に応えるものである。それは理想の自分になるため、あるいは醜い現実から逃
れるために選択される手段であった。しかし、たとえ整形手術を受けたとしても、新しい
顔がかつて患者が思い描いた理想の顔と完全に合致することなどありえない。仮に理想の
顔が手に入ったと思えたとしても、それは時間の経過と共に必ず崩れ去る運命にある。肝
心なのはまさにその瞬間だ。かつて思い描いた理想の自分と現在の自分がどうしようもな
く乖離しているという残酷な事実に気づいた時に、どうすべきか。もう一度整形を受ける
ことは選択を先延ばしにすることでしかない。私たちはどこかで歯止めをかける必要があ
る。私たちはいつか理想を追い求めることを止め、現実と折り合いをつけなければならな
い。
ただし、現実の自分もまた一つの固定されたイメージでは決してない。時間の中でゆら
めく現実は、油断すれば私たちを取り残したまま進む。一つのイメージに固執する自分は
流れる現在から取り残されて過去になる。高須は、現在の激流の中、横滑りして過去の底
へと沈没するのを拒むため、走り続けているのではないか。高須は移動しているのではな
く、移動することで現在に留まろうとするのだ。
このように考えると、CM の度に叫ばれる「YES!」が何に対する応答だったのか理解す
ることができる。無数の「YES!」はいかなる時空間においても自らがそこに存在し続けて
いるという自己同一性の確信であり、無条件的な自己肯定の「YES!」である。遊動する自
己を見失いそうになりながらも、「YES!」と一言唱えることで全てを受け入れることがで
きる。「YES!」とは、他でもない、己自身への応答だったのだ。

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